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根本中堂で考えたこと


いつもは参拝客で賑わう延暦寺根本中堂だが、冬の平日のせいか誰もいない。

根本中堂は江戸時代に再建されたが、さすが天台仏教の中枢。

独特の荘厳な雰囲気と宗教的な威厳に包まれており、「何か」を考えさせる神聖な気持ちにしてくれる。

この前に訪れたのは初夏の頃で、参拝客が次々堂内を訪れるため、もの思いに耽るなどとうていできなかった。

確かそのとき参拝客の多さよりも驚いたのは、僧侶による大きな声での観光案内。せっかくの凛とした雰囲気も台無しだったような印象がある。

参拝客へのサービスだろうが、仏と対面し、静かに自分を見つめることこそ根本中堂には相応しいと思うのだが。


自分は文化としての宗教を尊ぶ気持ちはあるが、信仰心はあまり持ち合わせていない。

にもかかわらず、たったひとりの堂内で、柄にもなく宗教ってすごいな〜とかいろいろ考えることができた。

(嬉しかったのは、堂内の一部分に電気カーペットが敷かれていたこと。

修行の身ではない老若男女、特にお年寄りにとって厳寒のお堂での電気カーペットはとても暖かくて心地よいのではないだろうか)。

ふと、そのとき。上を見上げると「伝教」と書かれた大きな額に菊の紋。

そういえば、天台宗は時の権力に迎合し、天台座主は皇族や五摂家の子息で占められていたという史実に思い当たる。

あまりにも当たり前のことだけど、改めて仏の前の平等を説きながら、権威にすがる矛盾を認識した。

封建時代はともかく、いまもこの傾向に変わりがないような気がするのは、けっこう仏教界にとってゆゆしきことじゃないのかな。

ある寺院を訪れたとき、そこの僧侶が参拝客に仏の教えを説法する一方で、

歴史的事実を超え、皇室とのつながりをやたら強調していたことを思い出す。

文化財の堂内に皇室カレンダーをべたべた貼って、スピーカーによる説法の強制。なんか今の仏教が抱えている矛盾を一挙に露呈していた。

そこの僧侶は自分の主張を正当化(主張自体はいいことだったのだが)しておきながら、こういう矛盾には未来永劫、気が付かないんだろうな。


なんかちょっと青臭いことを長々と書いてしまった。

あ、そうそう。根本中堂の前に古いお札を収めるところがあったんだけど、そこの貼り紙があまりにも悲しかった。

「収め料、ただし100円以上」

なんか、気持ちはわかるけど、天下の延暦寺が・・・・。何とも言えない気持ちになりました・・・・。


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また、ひとりごとに関しては個人的な感想を記したものなので、不快感を与えたとしても責任は負いません。