山県有朋と無鄰菴  

無鄰菴の主庭  京都の庭園  南禅寺界隈の名園 MAP 小川治兵衛の庭


 

古稀庵  椿山荘 高瀬川二条苑(第二無鄰菴)




個人的なことですが、自分の大学時代の論文が「山県有朋と官僚制」でした。
伊藤博文ほど世間的には有名ではないものの、伊藤以上に権力を振るった山県という政治家に興味を持ったのがきっかけです。
当時はもちろん庭のことには全く関心がなかったのですが・・・・。
何年かを経て、まさか大学時代に論文の主題に選んだ人物に再び庭を通じて大きな関心を抱くとは思ってなかったです。
その時に読んだ、岩波新書の「山県有朋」(岡義武著)には山県の作庭に関する記述もあるので、お勧めです(読みやすい本です)。

この本によると、山県は造園だけでなく、折に触れて和歌を詠むなど、風流な文人だったことも分かります。
ここからは個人の勝手な感想ですが、山県は田舎侍上がりの武骨で、冷徹な政治家というイメージが強いかもしれませんが、
実際は優れた美的感覚を持つ、繊細な性格だったのかもしれません。
同じように(時代は飛びますが)、豊臣秀吉も農民上がりの成金趣味というイメージが浸透していますが、
彼がプロデュースしたとされる醍醐寺三宝院の庭を観ると、
成金趣味に塗れた人間が、完璧な日本の美しさをちりばめたあのような造形を作れるはずはないと思ってしまいます。
庭だけでその人の全貌はつかめませんが、人物像の把握では、庭の創作を通じた美的感覚も少しは考慮されてもいいのではないでしょうか。








明治の元勲の住居にしては簡素な佇まいの無鄰菴の主屋。内部もシンプルなつくりに









無鄰菴が完成したのは、
日清戦争後の朝鮮をめぐる協定「山県―ロバノフ協定」を締結するために赴いていたロシアから帰国した1896年(明治29年)の暮れ。
明治の政界で着々と勢力を築き上げていた山県はこの縁側、部屋からどのような気持ちでこの庭を眺めていたのでしょうか。









無鄰菴には洋館も建っています。中は展示館のようになっており、山県有朋と小川治兵衛の紹介も。









洋館の応接間では、日露戦争(1904年)の前年の1903年(明治36年)、
伊藤博文や桂太郎、小村寿太郎が集まり、対露方針を話し合う会合(無鄰菴会議)が行われました。








時代は前後しますが、山県が無鄰菴と名付けた邸宅は3軒あり、いまの無鄰菴は3番目となります。
1番目の無鄰菴は山口県下関市につくられました(現在は東行庵という寺院)。
そして2番目は、いまの「がんこ高瀬川二条苑」です。
ここは江戸時代の豪商、角倉了以邸の庭を小川治兵衛が改修したもので、1891年(明治24年)に完成しました。
この年は、山県が初めて首相に就任した記念すべき年。
議会開会演説で、戦前の外交方針の基軸となる「主権線」「利益線」の構想を打ち出したことは有名です。






山県は、東京では京都に先んじて邸宅を購入しています。
千代田区富士見町の邸宅(現在の農林水産省三番町共用会議所)に次いで、
1878年(明治11年)に文京区の椿山(つばきやま)の土地を購入。「椿山荘(ちんざんそう)」と名付けました
ちなみに山県は西南戦争の戦功を理由として、椿山荘を購入する資金を下賜されました)。
山県は椿山荘をこよなく愛していましたが、1917年(大正6年)に80歳を機として
千代田区麹町五番町の新椿山荘(現存せず)に移ります。
椿山荘はその後、藤田財閥に売却されて庭園はいまのような形になりましたが、
池泉庭園の部分は山県時代の面影を色濃く残しているそうです。






山県の終焉の地となったのは、1907年(明治40年)、70歳の時に構えた小田原の「古稀庵」。
晩年にはこの古稀庵で過ごす日々が多くなり(岡義武「山県有朋」)、ここ古稀庵で、1922年(大正11年)に85歳で息を引き取りました。





近代の庭園に大きな影響を与えた小川治兵衛と山県有朋に敬意を表して。
二人の詳細な経歴はこちらのページに記載されています。





無鄰菴の主庭

このページの七代目小川治兵衛と山縣有朋の肖像と説明文は無鄰菴の展示から引用させていただきました。

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