三渓園 (横浜市中区)  

東京・関東の庭園
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訪れる前は、結局全国からカネにモノを言わせて文化財を寄せ集めただけで、

この
庭園を造った原三渓という人のことも戦前の成金くらいにしか思ってなかったのですが、
実際に訪れてみると生粋の趣味人だったんだなぁ・・・とこれまでの偏見が雲散霧消しました。
横浜を舞台に活躍した大実業家であり、
全国から文化財を集め、個人でこれだけの規模の庭園を造った財力と文化的な創造力は
もっと評価されても良いのでは?と思います。

特に三渓の私的空間として創造された内苑には、紀州藩の御殿だった臨春閣をメインに、
秀吉大政所ゆかりの旧天瑞寺寿塔覆堂、二条城に設けられた聴秋閣、
伏見城の一部だった月華殿、鎌倉の廃寺から移築された天寿院などの建物が点在してるのですが、これが絶妙な配置。

臨春閣の周辺はあくまでも御殿に相応しく雅やかな雰囲気、
覆堂はどこかの鄙びた里にぽつんと建ってる風情に、 というように見事に建物の持つ特徴を熟考したうえで、
適材適所に配置されているのには驚きました。原三渓、侮りがたし。美的な感覚に優れた人だったんだなぁ・・・・・。
三渓は臨春閣の周辺の整備に当たって高台寺を参考にしたそうですが、
高台寺
よりもしっとりとした風情を出すことに成功してるような気もします。

さらに名建築を上手く配置しただけでなく、内苑の臨春閣、聴秋閣、旧天瑞時覆堂などは全て桃山時代の建築物。
三渓はここに華やかな桃山文化を再現しようとしたのではないでしょうか。
この壮大な企図と構想力、それを実現した努力と財力は本当にすごいなぁと尊敬します。


これまで近代に造られた個人の邸宅では東京・椿山荘が最大の規模と思ってましたが、上には上があるものですね。
規模の大きさ、庭園内の建物の配置などはこちらの地図を参照してください。






臨春閣
重要文化財

「東の桂離宮」と呼ばれる雁行型の優美な臨春閣と周囲の庭園。紀州徳川家の御殿を移築したものです。






内苑の風景
旧天瑞寺寿塔覆堂 

聴秋閣は二条城に建てられていたもので、大正11年に三渓園へ移築されました。内苑には桃山文化の遺構が集められています







春草廬―三渓園の茶室 重要文化財 

織田有楽斎がつくった重要文化財の春草廬のほか、3棟の茶室が苑内に点在しています。







聴秋閣・月華殿・天授院 重要文化財 

聴秋閣は二条城に建てられていたもので、大正11年に三渓園へ移築されました。月華殿、天樹院ともに江戸初期の建築物です。



内苑の案内図(2023年3月現在)






大池と外苑の風景

三渓園の広大さを象徴する大池と小高い丘の上に建てられた三重塔(旧燈明寺、京都府)。三渓園を代表する光景です。




旧天瑞寺寿塔覆堂 天授院 月華殿


三渓園は大きく内苑と外苑に分かれます。
内苑の建物や構成を観ていると、
「建物はもともと本来の場所にあってこそその良さが味わえる」という意見もありますが(自分もそう思っていました)、

ここまで完璧な環境が整えられているのなら、移築という手段も悪くないんだと考えを改めました。
三渓園はこの「移築による文化財の寄せ集め」というイメージで過小評価されているというか、損をしているかもしれません。

旧矢箆原家住宅 旧東慶寺仏殿 旧燈明寺三重塔 旧燈明寺本堂
 
一方で外苑。大池の向こうにそびえる三重塔や旧東慶寺仏殿は三渓が移築しただけあり、雰囲気も調和性も全く問題ありません。
特筆すべきことは、原三渓が戦前に外苑を一般市民にも公開したことでしょうか。
生糸の貿易で巨財を築き上げた原三渓ですが、関東大震災後には積極的に寄付を行うなど、
つねに社会への還元を念頭に置いていたことは紳士的な原三渓の人柄が偲ばれます。

ただ、三渓亡き後に行われた外苑の移築はどこかアンバランスな印象も。
東慶寺仏殿の横に合掌造りの民家があり、なぜ唐突に燈明寺の本堂が??
内苑に見られるような、「桃山文化」にこだわった建造物の特徴や統一性を考え抜いた上での環境づくりがほとんど考慮されていない感じを受けます。
外苑は「庭園」というよりも「公園」という雰囲気に近いでしょうか。

あと細かいことなのですが、文化財が集結する三渓園。
保護や監視のために火災報知器などを設置するのは当然のことなのですが、
どの建物でもとても目立つところにそれらの機器が設置されている感じがします。
京都のお寺とかは建物や庭の景観に配慮して、少し目立たない場所に置かれていた気もするのですが
(単なる思い違いかもしれません)。


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